2009年3月30日星期一

天声人语(4)

2009年3月30日(月)付
随筆家の幸田文が「身の納まり」ということについて書いている。出入りの畳職人があるとき、腕は良くても老後に身の納まりがつかない者は良い職人とはいえない、と口にしたそうだ▼「若い者に、自分の安らかな余生を示して安心を与え、良い技術を受け継いでもらわなくてはいけない」と。つまり寒々しい老後を見せれば、若い者はこの仕事を続けていいものか不安になる。それでは失格、というわけだ。見事な人生哲学だが、難しいからこその自戒だったのかも知れない▼その随筆から半世紀がたち、身の納まりは一層つけづらくなってきたようだ。群馬県の高齢者向け住宅で先日起きた火災にも、その感が強い。行き場のない高齢者の受け皿に、無届けのずさんな施設が使われていた▼最期が無残な焼死では、安らかな余生からは程遠い。「終(つい)のすみか」の、質量ともどもの不足が生んだ悲劇である。これでは後に続く世代に不安ばかりが募る。畳職人にならって言うなら、こんな国は失格、ということになる▼「老いて暖まりたい者は、若いうちに暖炉を作っておけ」と西洋の諺(ことわざ)に言う。承知はしていても予定通りに運ばないのが人生だ。年金という公的暖炉も先々の炎は心もとない。家族や地域はゆらいで久しい。手元不如意、シングル、病……誰もが「事情」を抱えながら老境の戸をたたく▼望むのは贅沢(ぜいたく)ではなく「尊厳ある老後」である。翻訳すれば「身の納まり」という、つつましい言葉にほかならない。それに応えるきめ細かい助けの網が、この社会にほしい。

试译

2009年3月30日(星期一)刊
随笔作家幸田文曾留有一篇有关“容身之所”的文章。文章提到曾有一位上门的榻榻米匠人说过这样一句话“如果到了晚年没有一个安稳的容身之处的话,纵使手艺再怎么精湛,也不能算一个够格的好匠人”。

据说是因为“必须让年轻人看到我们和乐的晚年,只有这样他们才会安心地继承我们精湛手艺”。即如果给年轻人呈现的是一个贫病交加的晚年的话,他们在选择继承这个手艺时便会陷入不安。而这便是失职——就是这个缘由。的确是着实精彩的人生哲学,但恐怕也是个知难而上的人生信条吧。

从这篇随笔诞生至今已经走过五十个年头,然而这样一个“容身之所”仿佛越发难以寻觅。前些天群马县敬老院火灾事件更徒增了我的这种感觉。作为那些无家可归的老人们最后的归宿,竟然是那样一所未经申报、漏洞百出的黑敬老院。

被悲惨地烧死——这与“和乐的晚年”是多大的天壤之别啊!而滋生这个悲剧的温床正是那所不达标准的“最后的归宿”。这样的事件只能令我们徒增不安——套用那位匠人的话,这正是国家的失职。

西方有这样一句谚语,“想要得到一个温暖的晚年,你就必须在年轻时为自己做一个暖炉”。但人生正是一个纵使我们懂得这些大道理却仍旧充满变数的行程。退休金——这个大众的暖炉也正因为之前的种种(退休金问题是日本一个非常严重的社会问题,由于政府的漏洞使得很多人领不到改得的退休金)而令我们心寒。地区也好、家庭也罢,这样的不安由来已久。贫困、孤独、疾患……每个人都是抱着这样那样的“情况”缓缓叩开衰老的大门。

我们所渴望的并不是奢侈——而是一个“尊严”的晚年。这个“尊严的晚年”如果翻译过来,则仅仅是“容身之处”这样一个朴素的没法再朴素的词汇。如果能在这个社会张开一张与之相应的救助之网,哪怕极细极细——那也该多好啊……

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