2009年3月10日星期二

一首の和歌から思い始めた

 「百人一首」の第七首「天の原」がある。それは「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」。なんと旅人のふるさとに対しての非常に思いが目で見えるそうだ。夕焼けの下で無辺の海を望んで自分が若いときに後にした日本が懐かしいかも。しかし阿倍仲麻呂は生涯再び祖国の土地に踏めず、長安で余生を送った、異国の孤魂になった。なんと、夕焼けの下に広き砂漠を望んでの「大漠孤煙直、長河落日円」の境界に似つかわしい。海でも砂漠でも人がなき広き支障である。超えることなんでできず。海の場合、夢があっても実現できず、ただ、夕日と長い影とともに孤独の心を無辺の彼岸へ送るだけ。まことにかなしいに足ることだ。
 
 そういう発想から、満州国幻滅の際の日本開拓民の心境はたぶん同じだろう。

 自分の夢と熱情を十四年間この荒れの大地投じて、最後はこの大地に命をかまれたそうだ。

 「新京」はまことに夢の都市だった。半世紀前はまだモンゴル貴族の狩場だった長春は東清鉄道の利権の争いによって草原の基で近代化都市ができました。最初ロシアはここに長春駅を建てた。その駅を中心として近い半径の範囲にヨーロッパ風な町ができました。1904年、日露戦争のあと、日本は満州を経略するために二つの機構を設立した。それは在満軍部統治を象徴できる「関東州都督府」と政府管理を代表した「南満州鉄道株式会社」であり、つまり「満鉄」、「満鉄」はイギリスの東インド会社のような存在で、政府が植民地での代表である。この「満鉄」こそ今の長春を誕生させた。

 「満鉄付属地」としての「寛城子」、今は長春の長屋地域であり、数十年間改築されなかった、その建築の一部分は旧満州時代の物である。当時はこの「寛城子」で長春最初の電気、給水、ガス、照明など配線工事が始めた。

 1932年、関東軍と旧東北軍の親日派が長春を満州国の首都にして「新京」へ名直した。関東軍は永遠に満州を自分の勢力範囲にするために一生懸命に満ソ国境の軍事施設を建設したとともに新京を国際的な都市を目指して立て始めた。1932年8月「大新京都市建設計画」発表された。それは19世紀パリ都市改築方案を原案としてまた「田園都市」の理論を取り入れたのものである。

 1932年から1935年まで、三年間新京は東アジアの名都になった。大同大街に沿って「興亜式」と呼ばれた雄大なビルが立ち並んだった、今までこうしたビルはまだ包装の下に長春の大地に立ち踏んでいる。




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